【私とニコン】 みなさんのニコンストーリーを教えてください。
Ryo Dobonです。
このPHOTO HUBに登録されているニッコールクラブメンバーの皆さんは、きっといろいろな思い出をお持ちのことと思います。
ぜひ、それを聞かせてください!おもろい話、ちょっと笑えない話、泣ける話、感動する話、すべらない話、酒のつまみになる話、なんでもけっこうです。写真との関わりでも構いません。是非ともよろしくお願いします。
ハッシュタグ、#私とニコン、と入れてます。よろしくです。
きっかけづくりのため、私の話を少しだけ。
私のニコンカメラとの一つの記憶です。
私の田舎の高校が創立60周年を迎えた時、記念講演に来られたのが、当時、グリーンランドと北極圏犬ぞり単独行を達成されていた植村直己さんでした。大冒険家だということはもはや周知でしたが、高校生だった私は当時、植村さんがニコンF2の寒冷地仕様を持っていった話を知るのはのちのことなのです。
講演の中で「みんな私のことを勇気があるというけれど、そうじゃなくて、すごい臆病者だ。だからいろいろなことを考えて準備して旅に出る」と話されたことを覚えていて、ずっと頭に残ってました。そんな植村さんがマッキンレーで遭難されたことを知ったのは、それから4年ほど経った時で、私は大学生でしたが、とてもショックをうけたのを覚えてます。
もともと私のベースとして、天文に興味があって、天文雑誌にニコンのカメラがかなり大きく紹介されていて、ニコンじゃなきゃダメだとは思ってました(と言っても高いし、技術的に無理だし、妄想だけが先走って結局、人の写真を観るだけでしたが)が、ご存知かと思いますが、植村さんはたくさんの写真を残されていて、そのほとんどはニコンのカメラだと思います。まあとにかく、あんな強烈に寒いところで撮れるカメラって・・・
行かれた方も大勢おられるかと思いますが、一昨年、品川のニコンミュージアムで、植村直己さんの特別展があり、確かここに、どんな苦労があったのか、植村さんとニコンがどんな話をしてこのスペシャルカメラを作ったのかが展示されてたかと思いますが、それを拝見して、高校生のころに聞いた植村さんの訥々としたお話の仕方などを思い出したのでした。それと同時に、きっと今頃まだ、マッキンレーのどこかで、F2と一緒に眠っている植村さんよ、安らかに、と思うのでした。そして、企業としてのニコンのものづくりに対する情熱に感動してました。
この話でさらに、やっぱりカメラはニコン、と強く思うようになりました。
て話です🙇
古い記憶なので、いろいろ前後関係間違いあるかもしれませんがすみません💦
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投稿を表示資料が見当たらないのですが、F2ウエムラスペシャルは、オイル、ギア、順巻、外装の変更が大きかったと思います。NASA仕様は台数がでるのに対して、たった3台のカメラのために実質新設計のカメラを造ったという印象が強く、非常に驚きました。後の2千台のF2プレスと3千台のF2チタンは外装のみの変更と記憶しています。1984年2月のマッキンリー山での事故の1年半後、アンカレッジに北側から着陸する際、手元にF2を置き静かに手を合わせました。
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投稿を表示いい話です。