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サークル:組写真

小林先生の写真ノート <Vol.8>

暗室 その3 

 

暗室での作業について、これまで2回にわたって書いてきた。
あと一回だけお付き合いいただきたい。 

現像液、停止液、定着液をくぐり抜けてきた印画紙は、最後に水洗槽に入る。そこでは水の力によって完全に薬品を抜かなくてはならない。それがしっかりされていないと、数年後にその影響から印画紙が変色することがある。だから長時間の水洗が必要だ。そのための促進剤を使用することもある。

定着液までは竹ピンなどを使い、直接印画紙には触れなかったが、ここから素手で扱うことが多い。水洗槽の水のなかに浮かんだ印画紙の位置を変える必要がある。だから、私は暗室に入る前には、極力、爪を丁寧に切ることにしている。水分を多く含んだゼラチン層はやわらかく膨らんでいて、傷がつきやすいからだ。ゼラチンといえば、おやつのゼリーを連想するが、まさにその表面に直接触れるような気持ちで接する。繊細さが必要だ。 

撮影の際は強い光の下で、アクティブ、ときに荒々しく、大胆に行動する必要がある。それに対して暗室でのプリントは真逆だ。静謐な時間の連なり。化学実験といういいかたもできるだろう。実際に一枚一枚、化学反応をさせているから、あながちこの表現は間違っていない。かなり真逆の行為だ。このことを一人の人間がすることを不思議だと感じることがある。明と暗、あるいは陽と陰。このコントラスを一人でこなすことによって作品がやっと完成する。これはデジタルカメラでの撮影、そしてインクジェットによるプリントでは味わえないものだろう。

前回(Vol.7)でも書いた通り、私はバライタ印画紙を使っている。バライタ印画紙はRCペーパーよりも取り扱いが難しく、 水洗が終わったあとはスクイーズ(水滴をスポンジなどできれいに拭き取ること)、乾燥、そしてフラットニングとまだまだすることがある。水洗はあたかおも干物の魚を干すように網の上に載せる。一晩ほど、時間をおく必要がある。だから、その日のうちにプリントは完結しない。ただ乾燥時間が長すぎると印画紙のカーリング(紙が反る)が激しくなる。だから、生き物みたいでかなり厄介だ。 
乾いたところで、フラットニングをする。多くの場合、専用の機械を使って行う。巨大なアイロン付きプレス機みたいなものだ。熱と圧によって平らにする。それをしないと、多くの場合、デコボコのままになる。つくづくバライタ印画紙は扱いにくい。 

まだ終わりではない。最後に仕上げとしてスポッティングをする。どれほど気をつけていても、ネガ上にホコリがついてしまう。肉眼では見えないほどの小さなものだったりする。暗室のなかで引き伸ばし機にネガをセットする時、当然ながらブロアーとか、エアスプレーでホコリなどを取り去るのだが、完全に取れない。何故なら、ネガ現像の際にすでについている場合があるからだ。濡れた状態のフィルムのゼラチン層に付着していて、そのまま乾燥してしまう場合もあるからだ。それを無理やり剥がそうとすると、ゼラチン層も一緒には剥げてしまう可能性がある。ほかにネガの傷がついて、それが原因のことも多々ある。多くは、印画紙上に白い点や線となって現れる。 

それを細い筆をつかって丁寧に修正していくのだ。アナログのレタッチの元祖みたいなものだ。専用のスミを用いるのだが、ずっとLPLというメーカーの「スポッティングカラー」というものを使っているた。黒、白、セピアと3色がセットになっているが、ほとんど黒しか使わない。 

これが、あるとき突然、発売中止になってしまった。10年ほど前だろうか。このときはプリントをしている人たちのあいだでは、ちょっとした騒ぎになった(といっても小さなものだが)。これからスポッティングどうするの?という話だ。実際、私も焦った。いろいろ調べたらニューヨークの写真機材全般を扱うお店に、液体のスポッティングの商品があったので、それを取り寄せて使ってみた。ただ慣れていないからか、扱いにくかった。 

LPLの「スポッティングカラー」は筆に水分を含ませて溶かし使う。液体ではないので、濃さを調整しやすいのだ。写真学校に入学した直後、これと出会い、使い方を習った。
「筆を舐めてください」と先生に最初に言われたときは、かなり驚いた。唾液で「スポッティングカラー」を溶かすためだ。 
「お腹が空いているときの唾はあまりよくないです、ご飯を食べたあとの唾が最適です!」 
そんなことを先生は言った。真面目だったのか、冗談だったのか、いまだに判断がつかない。いまから38年前、1986年の春のことだ。

数年前、引き出しの奥から、真新しい「スポッティングカラー」がでてきた。いつ買ったものかはまったく覚えていない。18歳のときから大事に使ってきたそれは、まだ三分の一ほどしか減っていない(黒の部分)。だから、この先もおそらくこれだけで一生持つだろうと思う。でも、すでに発売されておらず、この先手に入らないと思うと正直、心細かった。それがもうひとつあったのだ。こんなに心強いことはない。明らかに一生分ある。 

 文字が書かれた台紙の部分って、もともとこんな色をしていたんだっけ?こんなに褪色しているとは思ってもいなかった・・・。自分にとって写真に関する道具のなかでもっとも長く使い続けているもののはずだ。ふと気がついた。 
引き出しの中から出てきた真新しい「スポッティングカラー」をよく見ると「なめないで下さい/DO NOT LICK」というシールが貼られていた。時代は大きく変わったのだと、こんなところで実感。 
 

左が18歳のときからずっと使っている「スポッティングカラー」。右が数年前にでてきたもの。
当時は数百円で買えたものがいまとなっては超レア。   
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