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サークル:組写真

小林先生の写真ノート <Vol.4>

フィルム育ちのカラーorモノクロ?

 

いまではすっかりデジタルカメラを使うのが当たり前になり(時々、フィルムカメラも使っています)、以前のフィルム時代とはいくつものことが大きく変わった。大げさな言い方をすれば、まるで違う職業を始めたような感覚すらある。特に依頼されて撮影する場合だ。以前はストロボでのライティングなど、ある一定の技術を持っていないと絶対に撮れない(写らない)という領域があったが、それはよくも悪くも垣根が断然低くなった。プロが以前ほど技術だけでは食べられなくなってしまったともいえる。

それはさておき、純粋な作品作りの場面でも大きく変わった。私の場合、そのなかのひとつがネガカラー(カラーフィルム)で撮るかモノクロフィルムで撮るかという選択だ。ネガカラーで撮ったものはモノクロ印画紙にはプリントできない(正確にはできないことはないが、全く調子がでない。パンクロ印画紙を使う方法もあるが再現性はモノクロフィルムで撮ったものには遠くおよばない)。

そのため、撮影時にどちらのフィルムで撮るかを決めるのは、毎回大きな決断だった。それを決めた上でフィールドへ出かけなくてはならない。20代、30代の頃、頻繁に東南アジアへ撮影にでかけたが、一回の撮影は数週間の場合が多く、その際、どちらかのフィルムしか持っていかないことにしていた。モノクロフィルムを持っていくことが多かった(両方持っていくと、結局中途半端な結果に終わることを学んだ。あくまで私の場合です)。

不思議なことにカメラにモノクロフィルムを入れていると、意識もモノクロ化していく。世界(被写体)の見え方、対峙の仕方がそうなっていく。具体的には光と影、グラデーション、フォルム、造形といったものに目がいく。それを常に注意深くみているから、意識、感度が高まるのだろう。海外ロケの場合は連日、集中して撮り続けるので、よりその傾向が高まる。もしネガカラーを入れていたら断然、色を意識することになる。光と影、そのグラデーションなどはほとんど意識しないだろう。

あるとき気がついた。モノクロ化していく意識の背後にはプリントのことが常に頭にあることに。プリントの際、ハイライトから暗部までできるだけきれいに階調を再現したいのだ。つまり焼きやすいネガを作りたいという思いが撮影時にある。だから強い逆光を極力避ける。プリントの際、ハイライトが焼き込みきれず調子がでないからだ。

ネガカラーで撮った場合は逆に逆光を積極的に撮ることもある。ネガカラーはラチチュードが広く、ハイライト側により強い。だからふわりとした感じが出やすい(写真家・川内倫子さんの作品はその典型ともいえるだろう)。でも、モノクロフィルムだとどうしてもその感じがでず、ただの白飛びみたいになってしまう。美しくない。だから避けようとする。

フィルムと対話するかのように「ここは写るだろう、頑張って光を拾い集めて」とか「ここは逆光が強すぎだな。(フィルムが)ヤケドする、やめとくか」などと無言でフィルムと会話しているのだ。

いい条件の被写体に出会うと「プリントのやり甲斐がある、期待しているよ」と自然とフィルムに語りかけていた(はたから見たらほとんどオカルトの世界です)。

デジタルカメラになってからその対話は一切なくなった。残念でもあるが、恩恵もある。カラーかモノクロかを撮影時に決めなくてよくなった。このことは大きい。冒頭で記した「まるで違う職業を始めたような感覚」のひとつはこんなものだったりする。

最終的にモノクロプリントで仕上げたいと決めていてもRAWで撮る。ただモノクロで臨むときはRAWのモノクロに設定している。モニターにモノクロ表示されるからイメージしやすい(RAWだと後でカラーにするということもできるので保険をかけているようなもの)。

ただ、いまだに頭の片隅にはフィルム時代の感覚が残っている。モノクロフィルムだけを持って遥か遠い場所まで来て、「ここはどう考えてもカラーだろう、なんで持ってこなかったかな…」と思う場面に遭遇することも当然あった。

でもフィルムがないのだから絶対にカラーでは撮れない。その「いさぎよさ」を懐かしく思い出したりする。だから、両方撮れてしまうことに、ちょっと後ろめたさもある。人って便利を一度手にいれてしまったら後戻りできないと、つくづく思う。

カンボジアのアンコールワット。モノクロでの仕上がりを想定しながらRAWで撮影。
カラーだと森が青々していてまるで印象が違う。
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