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サークル:組写真

小林先生の写真ノート <Vol.3>

最初の組写真 その2


前回、授業の講評会で名前を呼ばれず、作品も紹介されず…つまりはまったく評価されなかったと書きましたが、その後その理由を自分なりに真剣に考えました。

でも、なかなかわかりませんでした。どうして同級生の作品は評価されて、自分の作品は評価されなかったのだろうか…。その差はなんだろうか? もしかしたら、先生に見る目がないだけで、ほかの先生に見てもらったらぐっと評価が上がるのではないか?なんてことも考えました(あとになって気が付くことですが、初期の段階でそんなことはまずあり得ません)。

なかなか答えが見つかりませんでした。先生に直接聞きにいく勇気など到底ありませんし、聞きに行くという発想すらありませんでした。完全に萎縮していたともいえます。正直、学校を辞めようかなと考えるほど自分にとっては深刻なこととして捉えていました。

しばらくして、学校の廊下に展示されている組写真の作品を偶然目にしました。先輩のものでした。東京下町の少し古びた、何気ない街角を撮影したもので、4枚組だったと記憶しています。

立ち止まって見ていると、不思議なことに、ふっと風が吹き抜けるような感覚がありました。

「あれ、オレ、いまこの写真に心が揺れたぞ。どういうことだ?」

と単純に思いました。感動というほど大げさなものではありませんが、確かに写真を観て、それに反応している自分がいました。

バブルの頃です。喧騒に包まれ人の多い東京にあって、その写真は静寂に包まれていました。どこにでもありそうな平凡で何気ないものが写されているのにも関わらず、気持ちが動いたことを不思議に感じました。
しばらく観ているあいだに、自分も同じように、どこか取り残されたような場所や、それを観ている瞬間が好きだということに気がつきました。さらに、自分もこんな写真を撮ってみたいとも考えていました。写真は4枚が同じトーン、距離感で撮られていました。おそらく同じ焦点距離のレンズで撮ったのでしょう。

気持ちが動いたのは、一言でいえば「共感」という言葉に集約されるでしょう。会ったこともない人だけど、自分と同じようなことを感じ、些細なそのことを気にしている人がいて、写真に撮った。何か話してみたいとさえ思いました。それが、いま自分に伝わった。その実感がありました。そのことに気持ちが動いたはずです。このとき、写真と鑑賞者のあいだに無言のコミュニケーションが発生したのです(これもまた後になってより自覚することですが)。なによりこのことを素敵だなと感じました。

気がついたことがあります。

「伝わらなくてはいけない」ということです。そして、その必要があるということ。言い方を変えれば、何かを「伝えるために写真を組む」ということです。

我に返りました。私が組んだ4枚には、そもそも伝えたいことなど一切ありませんでした。伝えたいとも考えていませんでした。気に入った写真を並べただけです。いってみればただの自己満足です。だから評価されなかったのだろうとぼんやりですが察しがつきました。

この発見は、当時の私にとって、とても大きなことでした。(小林紀晴)
 

当時、組写真の一枚として使用した作品。何故、選んだのかはいまとなっては不明。
単純に「上手く撮れた」と思ったからでしょう…。

 

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