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サークル:組写真

小林先生の写真ノート <Vol.5>

言葉について

 

今回は写真と言葉の関係について考えてみたい。写真に言葉なんて必要ないと時々、耳にすることがある。確かにその通りだと思うこともあるが、時と場合、目的によるだろう。

組写真、さらには個展、写真集と複数の写真により世界観を構築し、メッセージを伝えるためには言葉はかなり有効だと私は考える。それもかなり初期の段階(最終的には、タイトルは絶対に必要で、それなしで作品の完成はないのだが)。

初期とは撮影段階のことを指す。ずっと以前、20代前半の頃にアジアを長く旅をしながら写真を撮っていた。その頃、頭に浮かべていた言葉は「遠く、遠く」というものだった。誰かに教えられたわけではないが、自然とそんな言葉が浮かんだ。私の場合、どういうわけか言葉に寄り添うことができなければ写真が撮れない(一種の体質かもしれない)。
 

当時、旅先でどれほど「遠く、遠く」と頭のなかで念仏のごとく呟いたことか。目の前に存在しているのに遥か遠くに感じること、もの、人、光といったものにカメラをその言葉と共に向けていった。「遠く、遠く」は写真以前に旅そのもののテーマだったのかもしれない。何故なら、心が動くのはそれを感じる瞬間だったからだ。
 

 たとえばインドの路上で道に迷い、右も左もわからないとき。どこを見ても通りのあちこちにヒンドゥ語のくねくねした判別できない文字ばかりが目につく。行き先の手がかりは一切見つけられない。それでも勘である方向へ歩き出す。土煙が上がり、青い排気ガスが鼻の奥をツンと刺す。汗が額から首筋を流れる。焦っている自分に気が付く。

そんなとき、「ああ、随分と遠くまで来たなあ、でももっと遠くに行くことになる」なんて身体の奥の方が実感するのだ。その不安な気持ちを定着させたくてカメラを取り出しシャッターを押す。

ひとつの言葉を意識しながら日々、旅先で写真を撮っていれば、自然とそれが反映された、あるいはそう感じさせてくれる写真が溜まっていく。このことに気がついたのは、実は旅をしている最中ではなく日本に戻ってからだった(フィルム時代ということもある)。

ひとつ軸となる言葉が撮影時にあれば、無限ともいえるとりとめのない旅先の風景や光景、時間のつらなりのなかから、その琴線に触れるものだけをすくいとれる。撮る段階ですでにセレクトしているともいえる。違う言い方をすれば、私にとって旅の写真は、ある特定の言葉に共鳴する何かを探し、それを採集する行為なのかもしれない。
 

インド、メナム川の夕暮れ
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