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サークル:組写真

小林先生の写真ノート <Vol.2>

最初の組写真

 

現在、組写真の講師などをさせていただいていますが、最初から組写真のことをきちんと理解していたわけではありません。そもそも18歳で写真学校(東京工芸大学短期大学部)に入学したときはその言葉すら知りませんでした。 

最初に組写真を作ったときのことはよくおぼえています。1年生の後期、ゼミの撮影実習で数人の先生と学生25名ほどで三浦半島に行きました。特にテーマが設定されていたわけではなく、好きに撮って、最終的に4枚の組写真にすることだけが決まっていました。事前の授業で組写真についての講義があったはずですが、先生の言っている意味があまり理解できませんでした。
「まあ、とにかく撮って、4枚並べればいいんだろう」くらいの認識でした。いま考えれば、かなりナメてました。
当日、海岸を中心に歩いてさまざまなものを撮ったのですが、ほとんど何も考えていませんでした。目の前に現れるものをただカメラに収めていったようなものです。水平線を撮り、海岸にいる小学生の集団を撮り、朽ちた船、岩などを撮った記憶があります。

フィルム現像をしてベタ焼きを作り、4枚を選びプリントしました。実はどのカットを選べばいいのか正直わかりませんでした。迷うのでなく、わからなかったのです。そのこと自体が組写真の意味がわかっていない証拠です(後になって気が付くことですが)。

実習から1ヶ月ほどたった授業で、講評会が2コマぶっ通しで行われました。先生が選んだ優秀な作品から紹介されていきました。選ばれた学生はそれについて説明などコメントしていくという流れでした。
選ばれた同級生たちはとても嬉しそうでした。そして饒舌でした。まぶしく映りました。そのうち、自分の名前も呼ばれるだろうと思っていました。自分の作品をどんなふうに説明すればいいのだろうか、同級生たちのようにうまく説明できるだろうかと心配になってきました。

それが、いつまでたっても呼ばれません。そして、時間がきて授業はあっけなく終わりました。つまり、私の作品は紹介されませんでした。現代だったら平等が求められるので全員の作品紹介、講評というのが当たり前ですが、80年代半ばは良くも悪くも乱暴な時代だったということでしょう。
私は少なからず、ショックを受けました、作品の紹介以前に一度も名前すら呼ばれなかったことに。180分のあいだ、たったの一度もです。数えたわけではありませんが、呼ばれなかったのは私だけ、あるいはあと一人くらいでしょう。 

それから当然ながら真剣に考えました。何がいけなかったのだろうかと。

以下、次回に続く (小林紀晴)

1986年、三浦半島のどこか。よく見るとフィルム現像のムラがでてます。
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